新たに世田谷区の文化財に指定された3件

  世田谷区教育委員会は2001年12月28日、「八幡塚古墳北主体部出土品(ハチマンヅカコフンキタシュタイフブシュツドヒン)」、「喜多見氏(江戸氏)墓所(キタミシ(エドシ)ボショ)」、「吉良氏墓所(キラシボショ)」の3件を、新たに区の文化財に指定した。

「八幡塚古墳北主体部出土品」は、有形文化財 (考古資料) として指定。 同区尾山台2丁目(11番)の宇佐神社内の同古墳は、全長 33・5mの造出付円墳と推定されており、平成4年の調査によって1基の箱形木棺が確認されている。今回指定の出土品のうち、直刀、鉄槍各1点と鉄鏃30点は棺上部、銅鏡1面とガラス小玉866点は棺内に副葬されたもの。
 指定の理由は 「古墳の副葬品としては、関東地方の中期後半から後期初めにかけての古墳文化を代表する組み合わせで、田園調布・野毛古墳群など南武蔵の古墳群の構造や首長層の動向を知るうえで重要である」 ことなど。
 所在は、同区宇奈根1丁目(8番)の宇奈根考古資料室と同区世田谷1丁目(29番)の同区立郷土資料館。

 史跡として指定された「喜多見氏(江戸氏)墓所」は、同区喜多見4丁目(17番)の慶元寺(ケイゲンジ)にある。喜多見氏は、武家の名門・江戸氏の末えいで、室町時代の中頃に喜多見の地に移住したと伝えられる。世田谷吉良氏や後北条氏に仕え、天正18(1590)年、後北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、関東に入った徳川家康の御家人となった。江戸勝重は家康が居城を江戸に定めたため、以後、喜多見姓を名乗ったという。間ロ 3・1m、奥行7・4m、広さ43・79uの墓所には、元和5(1619)年に建立された江戸頼忠の墓をはじめ、その孫・勝重など一族の墓や江戸氏供養塔、石灯籠など計28基の石造物が存在する。
 指定理由は「喜多見氏(江戸氏)は、江戸前期に近世大名となった区内で唯一の存在であり、菩提寺の慶元寺で保存され、現在に伝えられてきた同氏の墓所は、世田谷の近世史を甦らせる貴重な史跡」。

  同区桜1丁目26番の勝光院(ショウコウイン)にある「吉良氏墓所」も史跡として指定された。
 世田谷吉良氏は足利義継を祖とし、その子・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられる。吉良氏は 1300年代後半に世田谷に館を構築したとされ、以後200数十年間、世田谷は吉良氏の所領として栄え、1500年代、後北条氏が関束に勢力を拡大すると、吉良氏は後北条氏の支配下に入る。後北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、当時の城主・吉良氏朝は隠居し、その子・頼久は下総国生実(現千葉市)に逃れたが、天正19(1591)年、上総国長柄郡寺崎村に領地を与えられ、家康の御家人となった。頼久は吉良姓を名乗ることをやめ、時田と改姓した。後に吉良上野介義央の家が断絶すると、吉良姓に復した。
 間ロ7・45m、奥行11・78m、広さ176・50uの墓所には、寛永19(1642)年から明治12(1879)年までの吉良氏一族の28基の墓石をはじめ、石塔が2基、墓塔が十数基置かれている。
 指定理由は「区内には吉良氏に関する文化財が多くあるが、中でも墓所は吉良家代々の葬地として、中世吉良氏につながる貴重な史跡といえる」ことなど。

 同区指定文化財は今回3件を指定したことで、有形文化財42件、有形民俗文化財2件、無形民俗文化財8件、史跡8件の合計60件となった。

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